ものを考えるとはどのようなことでしょうか。
何かを思い悩む、これもある意味「考える」ということの一種です。
頭の中をずっとめぐってしまう。考えてもしょうがないことを考えてしまう。
文字通りこの時も「考え」ています。
ただもっと別の考えるも存在しています。
それは課題を解決する、状況をよりよくする、ビジネスであればどうやったら顧客が増えるのか、これらを好転させていくためのアイディアを頭の中で展開していく。
これらも「考える」ということです。
これらの二つの「考える」は同じ頭の中の作業だとしても、その内容は大きく異なるものです。
大学に入るとレポートや論文を書かなくてはなりません。
社会人になってビジネスの場でアイディアを共有する立場の人もいるでしょう。
この時に必要なのが後者の「考える」です。
さて、後者の「考える」に名前を付けるとすると何と呼べばいいでしょうか。
つづく…
違う本なのに同じことが書いてある。
そのような不思議な気付きをしたことがないでしょうか。
著者も分野も違うのに、この言葉、どこかで読んだことがある。
このような体験はとても不思議でおもしろいことです。
分野は違えど、著者が大事にしていることは通じ合うことがあります。
先日あるWebサイトを見ていたら、このセリフどこかで聞いたことがあるなという箇所がありました。
それは小学生が自分の好きな本を紹介するという課題の中で、文字数制限があると言いたいことを伝えるのが難しいという話でした。
あらすじを書いていたらすぐに300文字程度は超えてしまう。誰かに紹介する時は、限られた制限の中で、何を言うか決めなければなりません。
その時に以前読んだ清水幾太郎の『論文の書き方』という本の内容を思い出しました。
清水幾太郎は戦前から戦後にかけて文章を書くことを生業としてきた人です。
清水の仕事は、専門雑誌に掲載される本の紹介文や新聞社の社説を書くことでした。
文章を書くことについて、限られた文字数の中ですべての人に伝わる文章を書くのは苦しい試みであったが、力になったと語っています。
現代の小学生の課題と清水幾太郎の文章についての考えに共通するところが見えた瞬間でした。
文字は溢れている。
みなさんは日常のどこで文字を読んでいますか?
Instagramのストーリーに添えられた文字。
求人情報の文字。
Xに投稿された文字。
今朝のネットニュース。
世の中に文字は溢れています。
しかし文字を読む機会は一昔前と大きく変わりました。
本、新聞、雑誌から、電子へ。
文字はあたらしい形として、わたしたちの周りに溢れています。
皆さんは文書を書くことと読むことのどちらが得意ですか。
読むことと書くことは、同じように言葉を用いることであってもそれぞれ違います。
例えば、論文を書く際まずどのような手順を取るでしょうか。
まず今頭の中にあるアイディアをひとまず紙に書いてみますか。
それとも先行研究を調べてそれらを読むことで全体の概要を理解しますか。
読む書く話すのどれが得意か。これは人それぞれ違います。
このサイトでは、読む書く話すこと、それぞれの違いを考えます。
書き表してみることによって何が起きるでしょうか。
頭の中でごちゃごちゃになっていたことが、一枚の紙の上で整理されます。
アイディアが文字という形になると、考えることへの一歩が進むかもしれません。
そして疑問やアイディア同士の繋がりが見えてくるでしょう。
ここで文字と形について考えてみたいと思います。
先ほどアイディアが文字という形になると述べましたが、そもそもこれはどういうことでしょうか。
アイディアを紙に書き出すと、それは文字という形として表れてきます。
もちろん頭の中にある段階でもそのアイディアは存在しているのですが、書くことによって文字という形になります。
これが書くことの一番の特徴です
電子書籍と本のどちらがいいかというのは答えの出ない問いです。
その問いに答えを出すことよりも、両者の違いを考える方が有益です。
例えば電子の良いところは何でしょうか?
電子書籍やデジタル資料は持ち運びが容易です。スマートフォンやパソコンが一つあれば膨大なデータを持ち運び、どこでも読むことができます。
また、インターネットでわからない事柄を検索すれば、それについての答えがすぐに出てきます。
では紙の本や資料の特長は何でしょうか?
それは全体が見渡せることではないでしょうか。
紙の本や資料に書き込みや折り目をつけることがあります。もちろん電子書籍でもそのような機能はありますが、画一化されているので個々の違いがありません。
紙は経年劣化し、書き込みや折り目もばらばらだからこそ、当時の記憶とともに保存されます。
電子と紙はそれぞれに特長があります。この両者を使い分けることが重要です。
「話が通じていない」と思ったことはありますか?
相手に言葉の意味は伝わっているのに、「そうじゃない」と思ってしまう。そのような経験をしたことがあると思います。
この時わたしたちは、いったい何が伝わっていないと感じるのでしょうか。
ややぼんやりした言い方ですが、それは「真意」が伝わっていないと感じるのです。
では、「真意」とは何でしょうか?
「意味」は伝わっているのに「真意」は伝わっていない。
つまり「意味」と「真意」は別ものかもしれないと仮定できます。
このことをより学問的にいえば、「真意」は「内容」と言い換えられます。
「言葉」が伝わっていても「内容」が伝わっていない。
わたしたちの使っている「言葉」は、実はとても複雑な仕組みのなかにあるのかもしれません。
本に書いてある内容がわからない時があります。
なぜこのようなことが起こるのでしょうか?
難しい本を読むと、文章自体は読めるけれども、書いてある内容が理解できないことがあります。
知らない語句の意味を調べて文章が理解できる時もありますが、言葉の意味がわかっても文章自体の意味がわからないこともあります。
このような時、わたしたちは何が理解できないのでしょうか。
それは内容です。それは文脈と言い換えることもできます。
文章とは、語句が文法の決まりに沿って整列し、そこに内容を含んだものです。
書き手の思いは、それを表わすふさわしい語句が集まって文章になることではじめて内容として伝わってきます。
これが意味と内容の違いです。
内容を理解することは容易ではありません。
書き手がなぜその語句を選んだのか、その語句の意味や背景をよく理解していないと導きだせないものです。
だからといって読むことを諦める必要はありません。
難しい本は今の自分にできる限りの理解をしていくことで、何日かあるいは何か月、何年か経ったあとにその内容が理解できる時が来るからです。